スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

昭和16年 

2005/06/02-09の記事を引越しさせたものです。



小学校時代 戦争と疎開
小学校入学は、昭和16年(1941年)4月。その年の12月8日、日本が米国に宣戦布告し、アジア・太平洋戦争が始まった。既に欧州ではドイツが宣戦布告し、枢軸国の日本が対米宣戦布告をしたことにより、この後は、第二次世界大戦と称されているが、当時我々は、大東亜戦争と教えられていた。

翌、1942年4月18日、神戸では、初めて米軍機による空襲があった。このときの空襲は、余り良く覚えていないが、B17が1機来襲というもので、本格的な空襲は、2年後に激しくなったと記憶している。神戸港は、軍港であり、又、軍需工場が多くあった関係で、攻撃の的となったのであろう。子供たちは、危険を避けるため、個人的な縁故疎開、若しくは学校からの集団疎開で、神戸を離れるようになった。私は、4年生のときに、岡山県の笠岡駅から、軽便鉄道で、終点井原駅へ、更に4キロほど歩いた先の、芳井町へ集団疎開した。宿泊地は十輪院というお寺であった。
group-sokai-photo

この写真は、当時一緒に疎開していた、友人から昨年(2004年)末に送ってくれたものです。

小学校ではなく、国民学校!
先に、昭和16年4月に神戸市立摩耶小学校入学と書いたが、その後、この年の前後について、調べていたところ、どうやら、自分は、小学校には入学も卒業もしていないことが分かった。国民学校について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)で調べた結果、国民学校令が昭和16年勅令第148号に基づいて作られ、同年4月から施行、昭和22年法律第26号に基づく、新制の小学校に変更されるまで存在したのである。というわけで、丁度この6年間存在した国民学校に入学・卒業したのである。この頃の同期生と話をしたことがあるが、小学校に入学、途中で、国民学校になったとの意見が大方であったが、事実はこのとおりであるので、訂正する次第である。

昭和15年、紀元2600年(1940年)に提灯行列が神戸で行われた。インターネットで検索の結果、-『神の赤子』になり損ねた小国民物語-というサイトで、昭和15年(1940)11月10日に政府主催の奉祝会が挙行され、この一環として、神戸の街で、提灯行列が行われたことが判明した。このときの、奉祝国民歌『紀元二千六百年』という歌が脳裏を離れなかった。歌詞は、一番から五番まであるが、その一番を引用する。

『金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて、今こそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 あゝ一億の胸はなる』

この替え歌に、『金鵄あがって十五銭、はえある光三十銭、いまこそあがるタバコ代、紀元は二千六百年 ああ一億の金は減る』というものである。この時代は、戦後ほどひどくは無いものの、相当のインフレ時代であったようである。

疎開先へのツアー
2005年、集団学童疎開仲間の多い、中学校、高等学校の同期会が開催された。それほど数多くはいないものの、やはり、この時代がなつかしく、疎開先を訪れた人が結構いた。
そこで、みんなで来年ツアーを組んで旅行しようということになった。

スポンサーサイト

密室の佐分利公使 

 1928年(昭和3年)6月に起こった『満州某重大事件』について調べているうちに、いろいろの参考文献があり、そのうちの一つ、松本清張の、「昭和史発掘」にゆきあたった。文春文庫の「昭和史発掘」2に、満州某重大事件に引き続き佐分利公使の怪死の章がもうけられており、興味深く読んだ。ところが、関連情報をネットで検索したところ、昭和ラブソディなるサイトを発見した。その内容は次のとおりである。

自殺も密室殺人に仕上げるのが推理作家の本分なら、「昭和史発掘」で佐分利公使の自殺を怪しい陰謀の香りに満ちた怪事件として世間に広めた松本清張の力量には皮肉でなくて敬意を表さねばなるまい。松本清張も勝手な思い込みから佐分利の自殺を他殺としたのではなく、佐分利の上司であった幣原外相が事件直後に他殺説をとっており、それをヒントにして構想を膨らませたのだと思われる。【中略】 佐分利は外務省の中でもこの幣原と同様に穏健派として知られていたという。そうした事から、軍による謀殺というストーリーが出てくるのだが、実際の事件の前後の様子を見ると、そうした憶測はちょっと無理があるようである。【後略】

 佐分利公使の事件は、1929年(昭和4年)11月のことである。松本清張は、

佐分利公使の怪死は、も早、一切の手がかりを失っている。しかし、筆者は、自殺よりも他殺を強く推定したい。まだ生きていた頃の丸山鶴吉(当時の警視総監)は、この事件をひとにきかれて、「あの事件の真相は、日本の国体が変わったときに初めて判る」といったという。この辺のところが真相かもしれない。

と述べている。怪しい陰謀の香りに満ちた怪事件でない!と言い切れるか?疑問を呈する次第である。
 おりしも、ライブドア事件に絡み、ライブドアによる企業買収にかかわったとされるエイチ・エス証券の野口英昭副社長(38)が18日午後、那覇市内で死亡し、自殺とされている。『昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した』と、半藤一利氏はいう。平成の今は、どうなのか?
【修正 2006/01/28】

昭和5年ごろの日本の状態 

【橋本欣五郎 手記から】
 半藤一利氏は「昭和史」のなかで、「昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した」と書かれている。昭和史について、多くの書籍があるが、曰く、「昭和史の謎を追う」(秦 郁彦)、「昭和史発掘」(松本 清張)などなど、なにか暗い影をにおわせるものが多い。昭和初期とは、一体どのような時代で、どんなことが起っていたのか?
 橋本欣五郎は、A級戦犯であり、東京裁判で終身刑の判決を受けた。その彼が、昭和5年ごろの国内政治社会観について、その手記で次のように述べている。誤解を避けるために言っておくが、筆者は彼に心酔しているわけではない。あくまで、一つの資料として掲載している次第である。


 明治以来隆々として発展した日本も、昭和時代に入って人心ますます弛緩し、滔々として自由主義の思想が漲り、国家観念は極度にうすれ、個人主義の思想は津々浦々にまで充満し、かつ、大正末期ごろから共産主義が入りこんで世界無比の国体まで危うくしようとする有様は、心ある者をしてつくづく国家の前途に危惧を抱かしめるに至った。
 また、政治は何ら国民の幸福を願うの政治ではなくて、政権の争奪に日を暮らし、政党は資本家の走狗となり、その腐敗は極度に達している。政治家の甚だしきは大臣たちの疑獄相次いで起り、天皇の御心はほとんど国民に及ばず、政党政治は天皇政府の唯一最大の障碍となっている観がある。
 経済は大いに発展したが、これはみな個人資本主義の極致であって、国家の利益は考えず、自己の利益のみに汲々とし、貧富の差は隔絶し、さらに資本家を代表する政党政府もまた国民の敵たるの観を呈している。このままで進むと国民の憤懣は爆発し、累を皇室に及ぼすことなきやを憂うるものである。さらに政府、政党、資本家たちはさらに覚醒せず、宮中の高官また政府者と合流し、為に国民の怨嗟の声が甚だしく起っている。
 外交もまた不甲斐なき有様で、恰も国際女郎の観がある。
 右のような状態を以って進むと、国民的大衆革命が起るであろうし、しかも、その暁には共産主義的傾向を生じ、無比の国体を損するに至ることは吾等同志の直観するところである。いかにしてこの有様を挽回し、天皇一本の政治にしたいため、吾等同志は日夜深く思いを凝らしているところである。

 明日以降、これについて、記事を追加してゆく。27日の記事「密室の佐分利公使」は、この記事に関係するものである。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。