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閑話休題 

 養老孟司さんの「バカの壁 第2章脳の中の係数」で、脳の機能に関する記述があり、入出力のメカニズムを一次方程式 y = ax で現されている。この一次方程式を使って、一つの事象について、どうして、異なる見方が発生するのか考えてみた。
 2006-01-28の『密室の佐分利公使』で、同公使の死について、二つの見方があることを書いた。一つは、佐分利公使の死を「他殺」と考えるのは無理があり、「自殺」説をとる(昭和ラプソディ)。もう一つは、松本清張氏の見解で、「他殺と推定したい」ということである。
 入力 x が同一とすると、係数 a の違いとなる。それでは、a は?と考えると、一次方程式だから簡単に a = y /x となるが、さて?並みの数学処理では解は得られないようである。
 そこで、a を「自殺説容認度」とおいてみると、どうやら解けそうである。昭和ラプソディ説ではこの a が+即ち、「これは自殺なんだよ!」という先入観があるのではないか。この背景には、当時の屍体検案書がある。これに反し、松本清張説は、-、即ち、「自殺とされているが、いろいろ検証してみると自殺とするには疑わしいことが多い」と考えればよいことになる。
 ここでは、あえて、「入力 x が同一」とした。この理由は、同一の事象にたいし、個々の脳内係数が異なるので、結果の異なる見方が生じることがあるということを証明したいからである。即ち、十人十色であるといいたい。養老先生の言われるとおり、a が零であれば、無関心となる。
 ライブドア事件に絡み、ライブドアによる企業買収にかかわったとされるエイチ・エス証券の野口英昭副社長(38)が18日午後、那覇市内で死亡した。自殺と19日に報道されている。自殺と断定するには少し早すぎはしないか?

昭和5年ごろの日本の状態 

【橋本欣五郎 手記から】
 半藤一利氏は「昭和史」のなかで、「昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した」と書かれている。昭和史について、多くの書籍があるが、曰く、「昭和史の謎を追う」(秦 郁彦)、「昭和史発掘」(松本 清張)などなど、なにか暗い影をにおわせるものが多い。昭和初期とは、一体どのような時代で、どんなことが起っていたのか?
 橋本欣五郎は、A級戦犯であり、東京裁判で終身刑の判決を受けた。その彼が、昭和5年ごろの国内政治社会観について、その手記で次のように述べている。誤解を避けるために言っておくが、筆者は彼に心酔しているわけではない。あくまで、一つの資料として掲載している次第である。


 明治以来隆々として発展した日本も、昭和時代に入って人心ますます弛緩し、滔々として自由主義の思想が漲り、国家観念は極度にうすれ、個人主義の思想は津々浦々にまで充満し、かつ、大正末期ごろから共産主義が入りこんで世界無比の国体まで危うくしようとする有様は、心ある者をしてつくづく国家の前途に危惧を抱かしめるに至った。
 また、政治は何ら国民の幸福を願うの政治ではなくて、政権の争奪に日を暮らし、政党は資本家の走狗となり、その腐敗は極度に達している。政治家の甚だしきは大臣たちの疑獄相次いで起り、天皇の御心はほとんど国民に及ばず、政党政治は天皇政府の唯一最大の障碍となっている観がある。
 経済は大いに発展したが、これはみな個人資本主義の極致であって、国家の利益は考えず、自己の利益のみに汲々とし、貧富の差は隔絶し、さらに資本家を代表する政党政府もまた国民の敵たるの観を呈している。このままで進むと国民の憤懣は爆発し、累を皇室に及ぼすことなきやを憂うるものである。さらに政府、政党、資本家たちはさらに覚醒せず、宮中の高官また政府者と合流し、為に国民の怨嗟の声が甚だしく起っている。
 外交もまた不甲斐なき有様で、恰も国際女郎の観がある。
 右のような状態を以って進むと、国民的大衆革命が起るであろうし、しかも、その暁には共産主義的傾向を生じ、無比の国体を損するに至ることは吾等同志の直観するところである。いかにしてこの有様を挽回し、天皇一本の政治にしたいため、吾等同志は日夜深く思いを凝らしているところである。

 明日以降、これについて、記事を追加してゆく。27日の記事「密室の佐分利公使」は、この記事に関係するものである。

密室の佐分利公使 

 1928年(昭和3年)6月に起こった『満州某重大事件』について調べているうちに、いろいろの参考文献があり、そのうちの一つ、松本清張の、「昭和史発掘」にゆきあたった。文春文庫の「昭和史発掘」2に、満州某重大事件に引き続き佐分利公使の怪死の章がもうけられており、興味深く読んだ。ところが、関連情報をネットで検索したところ、昭和ラブソディなるサイトを発見した。その内容は次のとおりである。

自殺も密室殺人に仕上げるのが推理作家の本分なら、「昭和史発掘」で佐分利公使の自殺を怪しい陰謀の香りに満ちた怪事件として世間に広めた松本清張の力量には皮肉でなくて敬意を表さねばなるまい。松本清張も勝手な思い込みから佐分利の自殺を他殺としたのではなく、佐分利の上司であった幣原外相が事件直後に他殺説をとっており、それをヒントにして構想を膨らませたのだと思われる。【中略】 佐分利は外務省の中でもこの幣原と同様に穏健派として知られていたという。そうした事から、軍による謀殺というストーリーが出てくるのだが、実際の事件の前後の様子を見ると、そうした憶測はちょっと無理があるようである。【後略】

 佐分利公使の事件は、1929年(昭和4年)11月のことである。松本清張は、

佐分利公使の怪死は、も早、一切の手がかりを失っている。しかし、筆者は、自殺よりも他殺を強く推定したい。まだ生きていた頃の丸山鶴吉(当時の警視総監)は、この事件をひとにきかれて、「あの事件の真相は、日本の国体が変わったときに初めて判る」といったという。この辺のところが真相かもしれない。

と述べている。怪しい陰謀の香りに満ちた怪事件でない!と言い切れるか?疑問を呈する次第である。
 おりしも、ライブドア事件に絡み、ライブドアによる企業買収にかかわったとされるエイチ・エス証券の野口英昭副社長(38)が18日午後、那覇市内で死亡し、自殺とされている。『昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した』と、半藤一利氏はいう。平成の今は、どうなのか?
【修正 2006/01/28】

短いメッセージの功罪 

昨年8月、総選挙公示寸前に行われた党首討論会を聞いて、以下の記事を書いた。


【ワン・フレーズ】 2005/08/30 12:49
 昨日、行われた日本記者クラブでの6党首討論会の報道のヘッドラインを見ると次のような記述がある。

 朝日新聞:「争点」で党首応酬 首相、「郵政」に絞る 野党、年金、増税問題訴え
 産経新聞:主要政党 6党首討論会 首相まずは「技あり」
 毎日新聞:「小泉ペースの選挙戦」を印象付け

 通信とネットワークの発達で、忙しい時代となっているので、マスコミも、キャッチフレーズで注目を引き、内容を読んでもらおうと努力していることは判る。しかし、今回の選挙に伴う、各党の党首による政策の説明が、このようなワン・フレーズで表現ないし説明されるのは、いかがなものか。
 それに加えて、相手の質問をはぐらかし、すれ違いの答弁が目立っている。
 小泉首相の「技あり」は事実である。しかし、この「技」は、本当に有権者のための「技」であろうか?
 そもそも、郵政民営化6法案が、参議院で否決されたのをうけて、衆議院が解散された。解散以外にこの6法案を成立させる代替手段は無かったのか?8月13日に会期末を迎えた通常国会(延長)で否決・廃案となったのならば、次の国会で再検討の上、新規法案として提出できないのか?
 いたずらに、対立軸をつくり、「郵政民営化に賛成か反対か!」とアジるのはどうかと思う。郵政事業には、郵便事業、貯金事業、簡保事業と大きく言って3本の柱がある。民営化すべきは、 貯金事業、簡保事業の2事業ではないのか。
 いずれの党も、「改革」、「改革」のオンパレード。有権者に対して、問題の所在を明示し、具体的な改善目標を示すのが政治ではないか。
 我々有権者は、マスコミの報道を精読し、小泉劇場のパーフォーマンスに惑わされること無く、次期政権を選択する必要がある。
 たまたま昨夜、民放TVで、ホリエモンに絡んで読売新聞渡辺会長の発言で、短いメッセージについての懸念があった。似たような考えであり、且つ、戦前に似たような現象があったようである。今夜その続きが放送されるので、注視したい。

不明を恥ず! 

昨日(2006/01/23)、時代の寵児 堀江社長が逮捕され、昨夜からマスコミはテンヤワンヤの大騒ぎである。

ところで、昨年2月、ライブドアによるニッポン放送の株式取得が話題になったとき、後に述べるメモを書いたのであるが、約1年経過した今日、振り返ってみると、ナンだ、そんなヤバイことをやっていた人間か!よく調べずに、生半可な情報で判断するととんでもないことになるな-と反省しきりである。もって不明を恥ず。


2005-02-27 08:15:11
1: TOB
最初TOBを仕掛けたのは、フジテレビのようである。昨年6月以来、M&Aコンサルティングは、ニッポン放送について、「いびつな資本構造の解消が課題」であると指摘していた。このいびつな資本構造の解消のため、フジテレビがニッポン放送株の過半数をTOBで取得しようとしたもののようである。
- M&Aコンサルティング ニッポン放送の社外取締役について
これに対し、ライブドアは2月8日、時間外取引を使い、大量のニッポン放送株を取得したと同時にTOBに入ったように思はれる。
フジテレビ、ライブドアのいずれに軍配があがるかは、市場と既存株主の判断であろう。ただ、時間外取引を利用したところが、大方の見方として、問題ではないかと言われているところ。この点については、現行法制の見直しが話題となっている。
2: 新株予約権
ライブドアの取得株数が40%を越えた時点で、ニッポン放送が、フジテレビを引受人として新株予約権を発行することを取締役会で決議した。
本来、この新株予約権発行は、事前に定めておかなければならないとされているところ、今回は、ライブドアによる買収が明らかになった後に取締役会で決議された。この点が、『じゃんけんの後だし』のように感じられる。また、このような企業防衛策があらかじめニッポン放送で準備されていなかったことは、ニッポン放送経営陣の怠慢と非難されてもやむをえないのではないだろうか。
この行為が、現行商法で正当化されるか否か、新たな判例を生み出す司法判断に委ねられている。
3: 外国企業による放送局間接支配の問題
宮沢元首相の発言、『少し神経質すぎる。すぐにも法律をというのはあわてすぎだ』に全く同感である。NHK対朝日新聞の件も、決着がついていない。日本で、本当に『言論の自由』が担保されているのか?
どうも、ドサクサにまぎれて、別の意図が感じられなくもない。昔の『大本営発表』の時代を経験したものが、神経質になり過ぎているのかもしれない。
アンファンテリーブルと守旧派
いずれの時代でも、『若い奴は・・・』といわれるように、会社の上層部は、自分たちの物差しで判断するのが常である。これに対し、若手は、発想が豊かで、自由奔放に行動する。このようなジェネレーション・ギャップはいつの時代でもあることではなかろうか。
どちらかというと、ライブドアの、『年寄りへの挑戦』にエールをおくりたい。

これからの生き方 

2005/06/22の記事を引越ししたものです。



 昨日、某メガバンクグループ主催の、「資産運用セミナー」で、養老 孟司さんの『これからの生き方について』と題する話を聞いてきた。
 氏は、昭和12年生で、自ら、戦後教育を受けてきた人間であると明言された上で、戦後教育の特徴を、『自己』、『自分』、『個性』、『自分に合った仕事(大阪のハローワークの広告)』などのキーワードから、本当の教育ではなく、[我がまま]を助長する教育である。また、教師というものは、飾りをつける教育をやってきて、まともな教育がなくなったと批判されていた。特に顕著なことは、1960年を境として、個性に合わせた教育が行われ、それ以前の教育を『封建的教育』として、時代に合わずとして、退けられてきたと述懐されていた。
 社会一般に受け入れられる考え方、行動基準をもっていてはじめて、社会人として受け入れられ、「人の心が分かる心」を持つことが教養であるとも述べられていた。
 ゴミの散らかった部屋を掃除機できれいにしたつもりでも、そのゴミの処理(廃棄、焼却処理)の結果、地球温暖化につながるのであって、小さい部分ではキレイになっても、グローバルな観点からは、決してキレイになっていないと例示して、観点を変えて物事を考える必要があるとの話があった。
 非常にお話の上手な先生である。東大の教授を長年やっておられたのだから当たり前といえば当たり前の話であるが、先生を長年やっておられた方、必ずしもそうではない。


 このときに、「風が吹けば、桶屋が儲かる!」という諺を思い出した。この論理は、次のとおり。

風が吹く
⇒砂埃が舞う
⇒砂埃が舞うと目に砂が入って失明する人がいる
⇒失明した人は琵琶法師になる (一説には、三味線ひきになる)
⇒琵琶法師が増えると、三味線の需要が増える
⇒そうすると、三味線の素材である猫の皮を採取するために猫の数が減る
⇒猫の数が減るとネズミの数が増える
⇒ネズミの数が増えるとネズミに桶をかじられることが多くなる
⇒そのため、桶の需要が増える
⇒結果として、桶屋が儲かる


ということになる。
 「事実はこうである、したがって○○ということが起こる」、これを繰り返し、結果を導き出す論理である。下手な使い方をすると、所謂「屁理屈」になるが、ある事実に基づく次の事象の発生する確率が高ければ高いほど、この論法は説得力が出てくる。
 上に、『風が吹けば桶屋が儲かる』という諺を書いたが、本当のところこれは諺ではなさそうである。これは、やはり屁理屈に近い。一つ一つの連鎖が起きる確率は非常に低いから、全体としては、そのようになるとは考えにくい。江戸時代の洒落もしくは余興だったようである。
 しかし、話術として、連鎖事項が、夫々発生する確率の高い事象をこのように並べてゆくと、説得力が出るといいたかったのである。
 養老名誉教授のお話。東大医学部で、アレフ(オーム)の信者であった学生が、真面目な顔で、「尊師が、水中に一時間入る行をされるので、先生に立ち会っていただきたい。」と申し出たそうである。これにはたまげられたようである。いやしくも、東大に入ってきた学生が、本当に、今流行の言葉で言えば「マジ」で、こんなことを信じているのか?と、唖然とされたそうである。
 聞いていた私も、「はて、東大に入るほどの人間が、一体どのような教育を受けて、難関を突破してきたのであろうか?」と疑問を抱くと同時に、小学校、中学校、高校の教育は一体どうなっているのか」とため息がでた。我々国民学校出身は、反復練習の繰り返しで、基礎学力を身につけてきたと自負している。しかし、受験となると、なにか、特別のやり方があり、大学の受験には、それなりのハウ・ツーもの(旺文社の「蛍雪時代」など)で勉強したものであるが、普通の人間が、水中に一時間も居られるなどとの非常識は持ち合わせない。しかし、こんなことを信じていた「東大生」がいたことは、まぎれもない事実のようだ。
 こう考えてくると、教育とは恐ろしいものである。『気になる数字』で、児島 襄氏の「太平洋戦争(下)」 (中公新書 2005年第5版 221頁)に、「米兵の日本(ドイツ)にたいする心理」の数字を引用した。調査対象となった、太平洋、ヨーロッパ戦参加各2個師団兵は、戦争遂行のため、軍事教育を受けてきたから、しかも、戦争というのは、相手を殺さなければ自分が殺されるというものであるから、相手を殺してでも勝たねばならない。それにしても、同じ質問に対する回答として、日本兵に対するものと、ドイツ兵に対するそれは、これほど異なるのは何故か。
 質問 「日本(ドイツ)兵を殺すことをどう考えるか」への回答で、対日本兵には、「心から殺したい」が44%に比べ、対ドイツ兵では、6%、「やむをえぬ義務だ」とする回答が、32%対52%である。
 教育の問題なのか、はたまた、人種偏見の問題か?

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